おはようございます、藤原です。
子どもは、よく「なぜ?」とか「どうして?」という問いを投げかけてきて、大人を困らせることがあります。
先日は、幼い子どもが「心はどこにあるの?」「心は何色なの?」と質問してきました。
子どもと接していると、このような場面はよくあることであり、一見、「哲学っぽい問い」。
だからでしょうか、世間では「子どもは哲学者」であると言われることがあります。
確かに子どもは、疑問に感じたことや知りたいことを素直に質問したり、見たまま・思ったままのことを言葉にしたりしますので、大人にとってはそれが新鮮に感じられたり、意外な気づきを得られたりするもの。それが、見る人からみると「哲学っぽい問い」に感じられることもあるでしょう。
例えば、子どもが「心はどこにある? どんな形なの? 何色なの?」という問いを投げかけてきたとき、ほとんどの大人は答えに困るでしょう。
そもそも「心」は概念なので存在しません。
しかし、「心」という言葉を知ることにより、どこかに存在していると思ってしまうもの。これは子どもに限ったことではなく、大人も同様です。
さらに例を挙げると、「愛」という言葉もしかり。「愛」という言葉を知ることにより、「愛がある」「愛がない」ということが問題になり、トラブルや悩みにまで発展することになります。
話を元に戻します。
大人は、子どもの「心はどこにある? どんな形なの? 何色なの?」という問いに対して、夢を壊さないために、「心は胸あたりにあるのかなぁ。ハートの形で虹色かもしれないね。」などと返答するのが関の山。
「子どもの問い」と「大人の問い」は、似て非なるもの。
「子どもの問い」は、知らないことが出発点。
「知りたい」という欲望から発せられるものであり、その問いによって「概念を深めたい」という考えには至りませんし、幼い子どもはそこまで理解できる能力もなければ、世間の常識も知らない状態。
一方で、「大人の問い」は、基礎学力を基盤とし、さらに社会の常識やルールを理解した上で、あえて懐疑し、意図的に問いを立てます。
この違いは、歴然としています。
では、子どもは「哲学する」ことはできないのか?
そんなことはありません。
私は、教員時代に小学低学年(1・2年)に哲学対話を試みてきました。子どもなりに、自分が獲得している語彙で言葉を紡ぎ出したり、友達の考えに共感したりすることができ、そのときの子どもたちの目はキラキラしていました。
世界規模で見てみると、1960年代から「子どものための哲学」というのがスタートしており、日本では、この10年の間に様々な場面で取り組まれるようになりました。
学校教育では、私立・国立だけでなく、一般の公立学校でも「哲学対話」を推進したいという学校が増えていますが、現実問題として、教師側がそのやり方を理解していないので、なかなか浸透していないのが現状のようです。
それに対して、哲学カフェ、職場での対話型研修、地域のコミュニティセンター(地域づくりのための対話集会)などでは哲学の素養を持つ人がファシリテーターとなり、哲学対話を引っ張っていっているようで、集団的な意思決定をするのに哲学対話が非常に役立っているとの報告を受けています。
「子どもは哲学者」とは言えませんが、「哲学者予備軍」とは言えそうです。
子どものうちから「哲学対話」を通して、思考力を高め、他者との対話によって視野を広げたり、他者への理解を深めたりしながら、生きる知恵へと繋いでいってくれたらと願います。
子どもだけでなく、大人も哲学対話を定期的に繰り返すことで、自然と「美学的な生き方」に繋がっていくものだと思っています。
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